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佐鳴湖で瀬名との別れ!築山殿瀬名姫が殺害された佐鳴湖と大刀洗の池と西来院月窟廟

佐鳴湖で瀬名との別れ!築山殿瀬名姫が殺害された佐鳴湖と大刀洗の池

佐鳴湖で瀬名との別れ!築山殿瀬名姫が殺害された佐鳴湖と大刀洗の池

2023年6月18日に徳川家康の妻の築山殿瀬名姫が殺害された佐鳴湖と大刀洗の池に行ってきました。築山殿瀬名姫が殺害されたのは天正7年157年8月29日の正午過ぎで築山御前は岡崎城から浜松城に向かう途中佐鳴湖畔の富塚村の小藪で家康の家臣により38歳で殺害されたそうです。またその際に瀬名姫を斬った太刀を洗ったと言われる大刀洗の池の場所にも行ってきました。NHK大河ドラマ「どうする家康」25話で瀬名姫役を演じた有村架純さんも撮影にあたってこの佐鳴湖を船で移動してこの地をお参りされたそうです。

 

佐鳴湖

佐鳴湖

佐鳴湖

佐鳴湖静岡県浜松市西区と中区にまたがって所在する湖で外周は約6キロほどあり、地元の人はジョギングコースとしてたくさんの人が利用されています。河川法上では浜名湖と同様に二級河川都田川水系に属して約2000年前の縄文時代後期頃から浜名湖とともに海から徐々に切り離されて出来上がった自然湖だそうです。

 

佐鳴湖駐車場

佐鳴湖駐車場

佐鳴湖駐車場

佐鳴湖を見学する際は浜松医療センターの第一大駐車場を利用されると最初の30分まで無料 30分を超え2時間まで200円 2時間超え1時間毎に100円加算とお安く利用できます。また大刀洗の池にも徒歩3分程度でいけます

 

大刀洗の池

大刀洗の池

大刀洗の池

大刀洗の池は2023年6月18日現在、医療センター工事のため令和6年2月まで立ち入りができませんが現地には上記の案内表示がされています。表記には下記のように書かれていました

太刀洗の池
徳川家康公の正室・築山御前を切った太刀を洗った伝説の池

1579(天正7)年、家康公の正室・築山御前と長男・信康が敵方と内通したとの疑いから、織田信長の命令で、家康公は2人の処刑を家臣に命じたといわれています。岡崎城から浜松城へ向かうため佐鳴湖を船で渡った築山御前は、待ち伏せていた家康公の家臣により命を奪われ38年の短い生涯を閉じました。その刀の血を洗ったのが太刀洗の池、亡くなった場所が御前谷と呼ばれています。
※現在工事中(令和6年2月まで)のため、立ち入りができません。

 

佐鳴湖殺害現場

佐鳴湖殺害現場

佐鳴湖殺害現場

佐鳴湖の殺害現場の場所はこの場所であるといった限定された場所はありませんでしたが、NHK大河ドラマ「どうする家康」では佐鳴湖畔の小高い丘の上で、家臣らに切腹を命じられましたがそれを拒み、静かに念仏を唱えながら家臣らに首を討ち取られ最後を迎えたとされています。その瀬名姫の手には家康が作った木彫りのうさぎを握りしめていたそうです。

表示には下記のように書かれていました

築山御前上陸の面影と浜松城の石垣の残骸

築山御前事件は浜松の歴史の暗部です。大刀洗の池碑は普請中ですが、「家康の散歩道が佐鳴湖に届かないのは何故か」という浜松都市伝説はご存じでしょうか。令和5年は築山御前の444回忌となります。岡崎から三ヶ日を経て船に乗り、浜名湖から堀江城を左手に仰ぎ、築山御前がこの一角に上陸したのは天正7年8月29日(1579年)の昼下がり。ここから浜松城まで徒歩40分。西来院まで徒歩で30分。約3程の道のりです。そこで何があったのか。築山御前は徳川家康公の愛した唯一の正妻。戦国時代の★石⋯。真相は小藪と浜松城の秘密です。是非越し方を偲んで、その道も散策してみてください。

さて、浜松城の野面積みは全国的に有名ですが、大量の大石がどこから運ばれたのか知る人は少ないようですね。この湖岸を覗いてみてください。大きな石がごろごろ転がって散見されます。これは何でしょうか?実は、この石たちはここから水揚げされ、浜松城の基礎石となるはずでしたが、積み落とされたままここに散在する残骸石です。浜松市文化財課で調査研究の対象となっていますが、長年の懸案のまま現在に至っております

令和5年5月21日うぐいすの里佐鳴湖創生会

 

さなる地蔵

さなる地蔵

さなる地蔵

佐鳴湖の畔にさなる地蔵という地蔵がありました。天正7年8月29日(1579年)に築山御前が終焉を迎えた上陸地もその侍従の入水殉死した地もこの湖岸と伝承されているそうです。

 

 

さなる地蔵

さなる地蔵

「さなる地蔵」は日本の伝統的な民話に伝わる「地蔵菩薩」が人心を供養し人々の心願を叶えるために現れるという仏様のお話に由来するお地蔵様でお彼岸の夕陽は正にこの正面に沈みます。

佐鳴湖は古来より「富と忌(とみといみ)」を人にもたらす鏡池(かがみいけ)です。この小藪の丘の上には東方を拝む神様、湖岸には西を拝む仏様がおりました。この地は、三方原台地の爪先に位置しています。ここは、光・風・水、シジミ・土砂・人、船、漁獲漁
が交錯し、戦国・江戸時代の昔にも浜松城の石垣を運ぶ水揚げ場としても活用され、多くの自然文物が交流する佐鳴湖髄一のパワースポットです。

 

天正7年8月29日(1579年)に築山御前が終焉を迎えた上陸地も、その侍従の入水殉死した地もこの湖岸と伝承されています。当代のさなる地蔵尊昭和10年の初夏5月21日佐鳴湖で行方不明となった追分小学校の学童達がこの湖岸に打ち上げられた水死事件
に縁起し、昭和11年に建立され地元民を中心に祀られてきました。それは今からほんの約90年の昔のことですが、この50年間で、佐鳴湖は生態系もろとも大きく姿を変えて今日に至っております。さなる地蔵は正に真西に向かい、佐鳴湖の日没の彼方に大阪城・唐・天竺と、西方浄土に臨んでいます。皆様方の健康祈願・家内安心とともに、学童安全・地域隆昌・国家安寧・人心救済・心願吉成就を供にお祈りいたします。このお地蔵様は「地蔵菩薩が人々の悩みや願いを叶える」という日本の仏教文化に根ざした信仰や、自分の幸せに留まらず、他人を助けることの大切さを伝える体現仏として、合掌広く地域で愛されています。


令和5年5月21日 さなる地蔵祭りに寄せて さなる地蔵愛護会

 

 

瀬名姫のお墓

瀬名姫のお墓

瀬名姫のお墓

命を絶った瀬名姫の首はその後、安土城織田信長へ届けられたそうです。瀬名姫の墓はその命を絶った場所から2キロほど東に行った西来院(せいらいいん)というお寺にありました。西来院には乗用車なら無料で止められる参拝用の駐車場がありますがバスなど大型車は駐車できません。この門の奥にあります。

静岡県浜松市中区広沢2丁目10 西来院

 

西来院月窟廟

西来院月窟廟

西来院月窟廟

佐鳴湖で息を引き取った瀬名姫は静岡県浜松市中区広沢2丁目10の西来院月窟廟で祀られています。きれいなお花が好きだった瀬名姫のお墓には没後444年経った今でも、欠かすことなくお花が飾られていました。

 

築山御前説明看板

西来院月窟廟

西来院月窟廟

築山御前
静岡市が出身地であったから「お瀬名の方」と呼ばれた。父は今川一族で重臣の関口刑部少輔親永。母は今川義元の妹である。岡崎の松平元信(後の徳川家康)が今川人質時代に結婚。長男信康、長女亀姫を生んだ。

家康が名実共に岡崎城主となるや、城内の築山御殿に居住したので「築山御前」と呼ばれた。同盟関係にあった織田信長徳川家康両者間における政治的駆引きと、岡崎城内における派閥抗争など、複雑に交錯する政治的人間的関係のひずみのなかで、遂に夫である家康により殺害されていった。力において優れていた信長の命令とはいえ、三河の為、徳川家康安泰のために屈服せさるを得なかった家康の苦悩もさることながら、あまつさえ身に覚えなき「謀反人」の汚名を着せられて、一人淋しく浜松の野に散争した御前の姿を想うとき、いかに戦国乱世とはいえ、余りの痛ましき、果かなきに涙を禁じ得ないものがある。

時に天正七年八月二十九日(西暦一五七九年九月二九日)御前三八歳。家康これを哀れみ、潙翁禅師に命じて懇ろにこの地に葬らしめた。
法名は 清池院殿潭月秋天大禅定法尼

 

佐鳴湖と大刀洗の池と西来院月窟廟

徳川家康の妻、築山御前、築山殿瀬名姫が殺害された静岡県浜松市佐鳴湖、最後を迎えた太刀洗いの池の後、お墓、松平信康の最後を迎えた二俣城とお墓のある青龍寺を紹介します。全国の神社を巡る旅チャンネル

 

 

NHK大河ドラマどうする家康

25話「瀬名との別れ」あらすじ

NHK大河ドラマ「どうする家康」第25話「瀬名との別れ」あらすじ!7月2日放送予定

NHK大河ドラマ「どうする家康」第25話「瀬名との別れ」あらすじ!7月2日放送予定

NHK大河ドラマ「どうする家康」第25話「瀬名との別れ」あらすじ!7月2日放送予定。ついに織田信長から家康が最愛なる妻と息子に切腹を命じられます。家康は許しを乞いましたが、叶いませんでした。瀬名は天正7年1577年8月29日佐鳴湖のほとりの小高い丘で心静かに念仏を唱えながら首を打たれます。信康は9月15日二俣城で「五徳と2人の姫をお願いします」その言葉を残し信康は大久保忠世の前では自害しました。

nhk-dorama.info



 

 

 

第25話「瀬名との別れ」あらすじ


時は天正七年(1577年)夏 織田信長はの天下統一への野望へと春に安土城天守を完成させ権威を示していました。信長に従う者たちの中には不満や疑念を抱く者が多く特に徳川家康はこの頃から信長に対する忠誠心と反発心の間で揺れ動いていたそうです


家康は浜松城で信長の軍勢が岡崎城に迫っていると言う知らせを知りわが命と引き換えにしいぇも岡崎を守らなければならぬと思っています。
鳥居元忠「殿、織田勢から使いが書を携えて来ております」
信長の書は家康に対して鷹狩りに同行するようにと書いてありましたが、いつもの鷹狩りとは様子が違兵を従えて来いとのお達しでした。
家康は信長との鷹狩りを避けたかったが断ることもできなかったようです

 

家康は浜松城を出発する前に自分の運命を巫女に占ってもらったところ「吉凶相半ばです」と言われます。「今は苦しみや困難の多い兆しである上お気をつけ下さいませ」
家康は不安を胸に秘めたまま信長と対面するべく浜松城を出発した


山の中にある小さな古寺に集まっていたのは信長とその家臣たち数名だけだったそうです。古寺に着いた家康は信長にひざまずき、佐久間信盛が家康に「我々がここに来たのはなぜかわかるか」と問います。家康は「瀬名と信康のことでありましょう。これは我が家の内情に過ぎず信長様の心に触れるものではございません我が身をしてても信長信長様に使えることが我が家の誇りでございますどうか好みにお恵みを携わりませんか」


信長は家康の方に手を回しながら
「お前の家族の事言え処分はお前に任せるとしよう。お前は我が家の忠臣だからな厳正な手段を下すこともできるだろう」

佐久間
「ご自分の都合の良いご判断だけはなさらぬように、恥ずべき処分では困りますよ」

家康は信長の姿に震えるだけだった


夕方岡崎城についた家康は、城下町を眺めながら瀬名と信康に話をします

「岡崎に恥を書かせるわけにはいかない、仕方なかろう」
信康:「これは岡崎を納める私の責任、この私めがこの身を捨てて岡崎を守ります。どうか父上この私の決意をお許し下さいませ」
瀬名:「いいえ悪いのは私です私。はこれまで存分に来てきました。私の首と引き換えに信康の命を助けて欲しいすべての罪は私が少ないましょう
家康:「ならぬお前たちは死んではならぬ」「ワシがが腹を切る」
信康:「そのような事はされてはお家が滅びます」
家康:「お前たちを殺す事は断じてできぬ。信長殿に直々に願い出る」

 

岡崎城では五徳が父信長に、この悪行12箇条の書状をお見せすればいよいよ徳川の運命は尽きるであろうと、以前父信長に言われたことを思い出していました。信長は五徳に「今後我らが最もすべき相手は徳川じゃ。この連中よく見晴り変な動きを見逃すな。市のようなしくじりは許さんからな分ったか」

五徳は父信長の言う通り徳川を倒し織田が支配をする計略を進めていたそうです。

五徳が書いた「た悪行12箇条」

①五徳が産んだ子が2人とも女児だったのでに信康も築山殿も喜ばなかった

②信康が粗暴な性格で例えば踊りが下手だと言うだけで踊り後弓で射殺した

③鷹狩りに行く途中に歩いていた僧侶に出会い縁起が悪いからといって引き殺した

④築山殿が甲斐国から唐人医師を招いて不倫をしていた
⑤その相手を通じて武田勝頼と内通していた
⑥息子の信康を巻き込んで武田勝頼と同盟しようとしていた

内容は五徳が勝手に描いてあげた不満の内容だったそうです

 

数日後、五徳は酒井忠次を岡崎に呼び出し
五徳「忠次殿、この症状を父信長に伝えていただきたい」

酒井忠次は書状の中身を読むと
「これでは徳川が危なうございます。この症状を信長殿に届けるなど私にはとてもできません」

五徳は酒井忠次
「父が申しておった。長篠の戦いでの酒井殿の活躍はあっぱれだったと、我が織田軍参謀集団の筆頭にと申しいるぞ」

酒井忠次は考えますが決心します

 

 

酒井忠次は急ぎ岐阜城の信長の所へ行き、岐阜城の信長は酒井忠次の目の前で書状を広げ一つ一つ内容を確認していったのです

信長:「家老であるお前が認めるのだから間違いなかろうが確かじゃな」

酒井忠次:「全て事実でございます」

信長:「信康と月山殿を切腹とする」

信長は信康と築山殿に不信感を抱き家康に2人の処分を命じました。
酒井忠次は直ちに浜松城に入り家康ぬこのことを伝えます

家康:「仕方なかろう。これはわが家の責任上、信長を恨む気は無い」
家康は従うしかなかったようです

 

天正7年1577年8月27日
月山の館では瀬長は1人庭に出て庭の花や鳥や虫の声に耳を傾けながら心に刻まれた記憶を思い出していました
かつて幸せな時を過ごしていた自分、父母子、供たちそして愛する夫彼女は空を空を見上げると白い雲が流れていたそして涙を流して見つめてその顔には心の終わりの悲しみが浮かんでいたそうです

しばらくすると石川和正が瀬名を迎えにやってきました。
「今まで世話になったお方様のお姿は我々の心に永遠に刻まれております。これからは我々がお方様の願いを叶えとうございます」
瀬名:「頼んだぞ」と小さく微笑ます

瀬名は最後ののぞみとして駿河の国が見たくて家臣や侍女らに囲まれて浜松に向けて出発したのです。

 

天正7年1577年8月29日

瀬名は佐鳴湖のほとりの小高い丘で心静かに念仏を唱えながら首を打たれたのです
瀬名:「いつか大事なものを守るために命をかける時が来る」その言葉を思い出しながら、そしてその手には木彫りのウサギが握られてていたのです

 

天正7年1577年9月15日

徳川信康は二俣城で「五徳と2人の姫をお願いします」その言葉を残し信康は大久保忠世の前では自害しました

家康の怒りは武田勝頼へ向かい宿敵ではなく妻子の仇えと変わってきます

天正9年1580年の春、家康は動き出します。その顔には、どうする家康