蔦屋重三郎と妻・おていの間に子供はいたのか?──『べらぼう』第42回から史実を探る

ドラマ『べらぼう』で描かれるおていの妊娠
第42回「オロシャの船が蝦夷地に襲撃」では、蔦屋家に明るい話題が訪れます。おていが妊娠を告げ、蔦屋重三郎(横浜流星)は新たな命の誕生を心待ちにします。しかし、蔦屋が尾張の書物問屋「永楽屋」に出かけている間に母・つよがこの世を去り、重三郎にとって人生の転機が重なる回となります。
物語後半では、おていの妊娠が不穏な展開を迎え、子供は残念ながら死産という形で描かれます。これは創作部分ですが、史実における「蔦屋重三郎に子供がいたのか?」という疑問を掘り下げるヒントでもあります。
史実には子供の存在記録なし
蔦屋重三郎(1750年~1797年)に関する史料を見ても、実子や子孫に関する記録は一切残っていません。江戸期の出版業者としては異例の知名度を誇り、没後も多くの伝記が書かれましたが、いずれの資料にも子供の存在は確認できません。大田南畝や山東京伝らが残した随筆・書簡にも「蔦屋の子」についての記述はなく、蔦屋の死後に事業を継いだ者もいなかったことから、後継ぎはいなかったと考えられます。
『絵本吾妻抉』に描かれた“家族”の姿

ただし、蔦屋重三郎が出版した北尾重政(山東京伝の弟子)の作品『絵本吾妻抉(えほんあづまからげ)』の中には興味深い場面があります。そこには蔦屋重三郎が妻子と共に恵比寿講を開き、恵比寿様を拝む姿が描かれているのです。
妻の隣には幼い男の子が微笑む様子が描かれています。この男の子が本当の子供であったのか、それとも「家内安全・商売繁盛」を象徴する寓意的描写だったのかは定かではありません。出版物としての性格上、理想的な家庭像を演出した寓意画の可能性が高いでしょう。
なぜ子供の記録が残らなかったのか?
江戸時代の出版業者にとって、家業を継ぐ跡取りは重要でした。しかし蔦屋重三郎は、後年「耕書堂」の名義が他者に引き継がれず消滅しています。これは、子供が早世したか、そもそも実子がいなかった可能性を示唆しています。
また、蔦屋が晩年に寛政の改革で弾圧を受けていたこともあり、仮に子供がいたとしても公的記録に名を残せなかった可能性もあります。
ドラマでの“死産”描写が示すもの
『べらぼう』でおていの子が死産するという展開は、史実の「子供不在」を象徴的に描いた演出と考えられます。蔦屋にとって家族の喪失は、出版という形で“命を残す”生き方を選ぶきっかけになったのかもしれません。産婆役で榊原郁恵さんが登場します。
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まとめ:蔦屋重三郎に“実子”はいなかった可能性が高い
史料上、蔦屋重三郎とおていの間に子供がいたという確証はありません。しかし、『絵本吾妻抉』に描かれた幸福な家庭の姿や、ドラマで描かれるおていの妊娠・死産の物語は、彼が家族を大切に思っていたことを示す象徴的な表現といえるでしょう。蔦屋重三郎が残したものは血のつながりではなく、江戸文化を後世に伝える「出版」という命の継承だったのかもしれません。
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